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富岡家の人々

2009/01/24 [22:19]

夕刻、暮れなずむ桜島に別れの汽笛を告げて、フェリー「なみのうえ」は奄美へ向けて九州島を後にしました。


鹿児島新港を出て1時間、ざわついた船内の空気も落ち着いてきた頃、
携帯電話が鳴りました。
阿蘇くじゅう高原ユースで知り合った富岡夫妻のお母さんでした。
そろそろフェリーで沖縄向かってるぐらいかなあ。と思って何となく電話してみた。ということで、
まさにその通り!と手を打ち(このブログのことは言ってなかった)、
後々まで気に掛けてもらってることに感謝しました。


阿蘇で、次熊本県に入るとき、良かったらうちに寄っていきなさい。と言ってもらっていたので、
実は、合志市の富岡夫妻宅に12月21日に赴いていました。
(そこで当初連絡が付かなかったカクジから電話があり、2日かけて佐世保にとんぼ返りしたわけですが、そんなルートの錯綜は別にいいとして)
そんなこんなで少しタイミングが合わず、
ブログには合志訪問のことは書かずに進んできて、
それが九州の心残りではありました。
するとフェリーに乗り込んだところでこの電話。
タイミングを得させてもらいました…!


12月21日は朝から土砂降りの雨でした。
22日は先方の都合が悪いらしいので、今日行かねばならない。雨中の走行です。
防府のオマール家を訪ねたときもこんなだったなあ、と思い返したりしながら、
土砂降りゆえ、濡れるのはもう完全に諦めて、走りました。
阿蘇で、家の位置と行き方を詳しく聞いていて良かった。
地図も携帯電話も容易に出せないし、道を聞く通行人もいない。
若干迷いながらも、記憶を頼りに目印を一個ずつ通過して、
「5軒ならんだうちの真ん中の家」にたどり着くと、
寒い中、お父さんが玄関先に出て待っているではないか!
「そろそろかな思てね、しかしあの説明でよう来れたっちゃんねー」


オアシスに到着した砂漠の隊商の気分で、
沸かしてくれていた五右衛門風呂で体を暖めます。
薪です。気持ちよくて面白くて、危うく僕も釜茹でになるところでした。


富岡夫妻は、後で見に行きましたが、畑で色んな野菜を作っています。
スーパーに行っても、野菜コーナーにはまず行きません。
自分のところで採れる野菜と近所のところで採れる野菜で、全部まかなえるそう。
食卓に並んだ料理の中心は自分ちの野菜です。
例えば味噌汁は、大根、人参、里芋、葱…、味噌も原料の大豆からして自家製でで、水も井戸水なので、おおパーフェクト。
合志の土の味がする素朴な味噌汁が、しみじみ美味しかったです。


夜は、近くに住む娘さん夫婦もやってきて、
4年生を筆頭に3人のお孫さんと1匹の犬が暴れ回る「体育館」と化した富岡家。
爺さんと婆さんと父ちゃんと母ちゃんと、孫、孫、孫、犬。
客人は、
大人と酒を飲もうとすると子供が放っといてくれないし、
子供と遊んでいると大人が呼んでくれるし、
犬にも犬好きが伝わって大いに甘えてくるし、
客人の幸せというものを思い切り感じていました。


僕をうちに招き、よくしてくれるのには理由がありました。
お母さんは、若い頃、僕のように各地を旅して回っていたことがあるそうです。
そのとき世話になった人に、


「もう私は恩返しできないから、「次の人」に、ね」


こういう発想がふつうに出て、そしてその通りに行動できるお母さんを僕は尊敬します。



夜遅く、夫妻の旧い知り合いらしい「田中さん」からいきなりの電話がかかってきた。
用がある電話じゃなさそうだったが、
お母さんはしばらく明るく話し、もう床に就いていたお父さんを、声を上げて呼んだ。
しかし酔って寝ていたお父さんはそれに応じなかった。
翌朝、お母さんは怒っていた。
夜中に変な電話をよこした田中さんに、ではない。起きてこなかったお父さんに、である。
「あんた人ば大事にせんで何の為に生きとるとね!」
頭を掻くお父さんと目が合って、笑ってしまった。




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